サイ上り神事

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 彦島八幡宮の秋季例大祭の中で行われる神事。彦島開拓の祖といわれる河野通次(こうのみちつぐ)が海中から御神体を引き揚げ、八幡宮としてまつり始めた故事に由来します。神事は境内舞台上で行われ、まず、羽織・袴姿の子どもたちが、トビウオが海面を跳ねる姿をあらわす舞を踊り、続いて鎧・兜に身を固めた武者が、海中から御神体を見つけて引き揚げる舞を披露します。

 河野通次(こうのみちつぐ)は、伊豫水軍の祖越智高縄城主河野通清の末裔で、伊豫の国(愛媛県)勝山城主でしたが、保元元年(1156)保元の乱に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び、天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗(ざんぱい)して、通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平を率いて西奔、追っ手をさけながら、比の彦島におちのびてきました。

農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが、朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じとうとう望みを捨て、彦島に永住する決心を固めました。




 

 

 それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野(ゆりの)民部、和田義信、登根(とね)金吾、富田(とみた)刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。

これを「彦島十二苗祖(びょうそ)」と云っております。

 

 

 保元二年(1157)十月のある日いつもの如く沖に出て漁をしていますと、一天俄にかき曇り里(今の迫町)から西南にあたる海上に紫色の雲がたなびき、その下あたりの海中より黄金色の如く光輝く物があるのを見て、通次等は不思議な思いで網を打って引き揚げると、それは一台の明鏡でありました。しかも鏡の裏には八幡尊像が刻まれていたのです。

 

通次等は大いに喜び、之は我ら一族の護り本尊であると、海辺の一小島の榊に一旦鏡を移し、その後祠を造営して鏡を納め光格殿と命名しました。

これが当八幡宮の発祥であります。

 

 又舊記に海底より光り輝く物があり、河野一族等鉾にて之を突きし八幡尊像の左眼がささりて賜りたり云々とありますが何れが真か確証しがたい。

 

 永暦元年(1160)十月十五日、先に小川甚六・柴崎甚平に命じて森の楠で刻ませた八幡尊像を光格殿に奉納し、通次は甲胄(かっちゅう)を着して弓を取り、郎党(ろうだう)、家人(かじん)に榊を持たせ社前に拝し、武運長久と一族の繁栄を祈りて後、大いに舞い踊り、我等が守り本尊「サァ揚らせ給う」と大声にてとなえたと云い、

故にこの一小島を舞子島と云うようになり、これがサイ上リ神事の始まりとなりました。




 

 正平四年(1349)二月三日夜、河野通次四代の孫・道久の代に八幡大神の御託宣(ごたくせん)がありました。

即ち「里より四丁、酉の方に平地あり、是れ我れが鎮座の地なり」と。

道久恐懼(きょうく)して直ちにこの平地を開き社殿を造営して、同年五月下旬竣工遷宮(せんぐう)の式を行い、社地名を宮ノ原と称しました。

これが現鎮座地であります。

 

「サイ上り」とは、通次が「さあ上がらせ給う」と大声にてとなえたと云う故事をそのまま伝えるものといわれます。

 

 

口碑伝説による

 

 所在地  下関市彦島迫町5丁目12-9

 交通JR下関駅からバス14分「東圧正門前」下車、徒歩3分

      下関 I.Cから車14分

 問い合わせ 彦島八幡宮 083-266-0700