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蚕種祭
今から約1800年の昔、中国から秦の始 皇十一世の子孫功満王(こまおう)が来朝帰化し、ここ豊浦宮(とよらのみや) にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を 献上したのが、我が国養蚕の始まりと伝えられています。
そこで異邦蚕種が我が国に初めて渡来して天皇に献上した地であることを記録し、後世に伝えるために、生糸の輸出が最も盛んであった昭和八年(1933)十二月に全国からの多額の奉賛金によって忌宮神社境内の現在地に養蚕関係者によってこの碑が建立されました。
『蚕種渡来之地』の碑文に、
謹みて考えをめぐらすに、人皇第十四代仲哀天皇即位二年(193) 天皇の熊襲征討のため穴門國豊浦津に行幸あらせられ此の地に皇居を奠(さだ)めなさる之を穴門豊浦宮(あなととよらのみや)と名付けて申し上げる、今の山口縣豊浦郡長府町鎮座國幣小社忌宮神社の神域は即ち其の旧跡なり。
三代実録によれば、仲哀天皇即位四年(195)に奏の始皇十一代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したと云う、是れ異国の蚕の卵が初めて我が國へ渡来したことを証明する文献であって、しかも其の地は実に此の神域に外ならず、近頃山口県蚕糸業者並に有志者ともに思案し此の由緒ある地を記念しこれを後世に伝えんがため、ここに碑を建て其の由来を書きしるす 。
と記されています。
碑の高さは約六・三メートル、重さ約三十七・五トンで、自然石では山口県一を誇り、毛利家が外浦に置いていた秋穂産の大石を利用しました。
題字は大日本蚕糸会々頭牧野忠篤、碑文は大日本蚕糸会山口支会長菊山嘉男知事で、昭和八年(1933)十二月二日忌宮神社宮司松島浅之助以下全神職の奉仕により盛大に除幕式が執り行われました。
仲哀天皇四年(195)、秦の始皇帝から十一代の孫にあたる功満王(こまおう)が来朝したとき、蚕種をここ、豊浦宮(とよらのみや)で献上したという伝承があり「蚕種渡来の碑」の前で、毎年三月二十八日に、蚕種祭が行われ、昭和五十六年(1981)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されています。
日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、延喜元年(901)八月に完成した。六国史の第六にあたる。
清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安二年 (858) 八月から、仁和三年 (887) 八月までの三十年間を扱う。
編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
途中、菅原道真が失脚して大宰府に左遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の二人であった。
編年体、漢文、全五十巻。
「三代実録」に、「仲哀四年(195)に泰の功満王(こまおう)が帰化入朝し、珍宝蚕種等を献じ奉った」とあります。
この記録は外国から我が国に蚕種が入ったことを示す最も古いものでしょう。
仲哀四年(195)といえば天皇は穴門国豊浦津(現山口県下関市長府)で治世していました。そのときの仮皇居跡はいま忌宮神社の神域となっています。
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
参考文献 下関市教育委員会『下関の記念碑』山陽地区篇
所在地 下関市長府宮ノ内町1-18
交通 JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩5分
JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩5分
問い合わせ 忌宮神社 083-245-1093
濃霧の中で「しめなわ祭」
関門海峡の航行が制限されるという深い霧の中で、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子(えぼし)岩にしめなわを張り航海の安全と豊漁を願う「しめなわ祭」が、十二月十日地元赤間神宮の神職によって行われました。
笛の音が流れる 11時40分開始
笛の音が流れる 12時00分終了
濃霧の中で粧いを新たにした烏帽子(えぼし)岩
所在地 下関市壇之浦町6番
交通 JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分
問い合わせ 赤間神宮 083-231-4138
しめなわ祭
立石稲荷神社(壇ノ浦)の下、国道9号を隔てた海の中に大きな石があります。
形が烏帽子(えぼし)に似ていることから烏帽子岩ともいい、この石は立石稲荷のご神体といわれており、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬(うやま)われています。
むかし、この大石が激しい潮の流れのため、海中に倒れたことがあります。地元の漁師たちは、元にもどそうと努めましたが、あまり大きな石だったので、どうすることもできず、そのままにしておきました。
ところが、大石が海中に倒れて十日あまり経った頃から、壇ノ浦の町内にいろいろなことが起こり始めました。大雨、台風、火災、疫病と悪いことが続くので、しだいに町の者達も不安になって、毎日集まっては相談をしましたが、なかなか良い案がうかびません。
今日も海は荒れており老漁夫は、仕方なしに網の手入れをしていましたが、そのうちに眠くなり、ついうとうとしていますと、夢枕に狐が現れ、「大石を早く起こさねば災難は更に続くであろう」と告げました。
老漁夫は、さっそく皆を集めてお告げを話し相談して、石を立て直す作業に取りかかることにしました。
町内の者が総がかりで石おこしの作業を行い、やっと起こすことが出来ました。
全員が、大石のまわりに集まり、口々に喜び合い、大石にしめなわを飾ったり、お酒を供えたりして、お祭りをしました。
それからというもの、災害はなくなり、嵐もおさまって、魚がたくさんとれるようになったと言います。
大石にしめなわを張る「しめなわ祭」は、航海の安全と豊漁を願う祭りで、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子(えぼし)岩(高さ約三メートル)で昭和26年からはじめられ、毎年十二月上旬に行われています。
地元の赤間神宮の神職が岩に登って、しめ縄(長さ五メートル、重さ二十キロ)を張りお神酒などをまく神事で、関門海峡の冬の風物詩として有名です。
その昔、海に倒れた烏帽子岩を放置して大雨、台風、火災、疫病と悪いことが続いた時、神から倒れている大石を起こせば災害がなくなると告げられ、この大石を起こしたところ災害がなくなったといわれる故事に由来しています。
所在地 下関市壇之浦町6番?
交通 JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分
問い合わせ 赤間神宮 083-231-4138
朝鮮通信使
朝鮮通信使は、室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元年(1375)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりです。
15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されています。
その後の文禄・慶長の役によって、日朝間が国交断絶となったために中断されました。その後、対馬藩の努力によって慶長12年(1607)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され再開となりました。
広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指しますが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多いです。
通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになりました。慶長12年(1607)以来、文化8年(1811)の200年余りの間に計12回の通信使が派遣されていますが、文化8年(1811)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶しました。
一行の人数は、毎回300〜500人の大使節団からなりました。
その中心は、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちで、随行員には美しく着飾った小童・その芸に秀でた楽隊・画員(絵師)・武官・医師・通訳などが加わっていました。
通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関(下関)を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航(そこう)し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かいました。
馬関まつり(08.08.23)カモンワーフ会場で、で朝鮮通信使行列が再現されました。
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
所在地 下関市唐戸町6-1
交通 JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩2分
問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350
関門海峡の花火
花火シーズン到来を告げるかのように打ち上げられた、亀山神宮夏越祭の花火大会。
知名度が上がり多くの観客が集り賑わいをみせる、関門海峡花火大会。
関門海峡の美しい夜景に彩りを添えた花火です。
夏越祭の花火大会(08.07.30)
関門海峡花火大会(08.08.13)