附野薬師と俵石

 海士ヶ瀬を眼下に見る丘に建つ。

海士ヶ瀬で難破された弘法大師が航海安全を祈願して建立したと伝えられ、本尊は薬師如来、脇侍仏(きょうじぶつ)は日光・月光の両菩薩を安置して、いずれも弘法大師作という。

 俗間(ぞっかん)では昔から「御薬師」と呼んで航海の安全の他、眼病治癒、安産などの霊仏(霊験 (れいげん) あらたかな仏。)として広く信仰を集めています。

平成4年(1992)に附野海岸に漂着した木彫りの十一面観音像も納められています。

 往古は豊田村華山の末寺でした。

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境内の「附野薬師如来の由来」には次のように記されています。

 當山に安置し奉る本尊薬師如来は、弘法大師一刀三礼(いっとうさんらい)の御作仏にして延暦二十三年(804)御入唐の砌(みぎり)、船中に於て御彫刻あらせられし尊像なり。

 大同元年(806)御帰朝の節供奉(ぐぶ)され、その後御化益(けやく)の為め北国へ御巡錫(じゅんしゃく)の折柄当地の沖海士ヶ瀬御通船の時、暴風俄に起り、逆浪(げきろう)して御船も既に危き處に、不思議に薬師如来の示現(じげん)を蒙り(こうむり)給い程なく当地の濱辺に着船ましましたり。(依って郷名を附野と申す。)

 御自作の尊像を供奉(ぐぶ)し給いて、当地へ上らせ給う。




 

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当郷久太郎宅(今の俵屋是なり)に訪い(おとない)寄り給い、暫く錫(しゃく)を止め庭前の石上に尊像を御鎮座ありて、主久太郎を霊前に招き給い、大師仰せられけるは、此所尊像有縁(うえん)の地なるとて霊地を求め給うに、此山正しく尊慮(そんりょ)に叶う霊場(れいじょう)なれば、此処に止め置くべしとて忝けなくも久太郎へ御附属(ふしょく)ありて大師は月山の霊場へ越へさせ給う。

 その後此処へ一宇を建立(回春山東福寺)して久太郎尊敬浅からず多年御守護をなし、累代(るいだい)に及べり。

 それより数百年の星霜(せいそう)を経て、同姓の中祖久太郎一子久市へ、霊夢に告げて曰く(承應二年(1653)四月朔日の夜)汝等へ眼病治癒(ちゆ)の灸(きゅう)を授くべし、とて十一穴を指揮(しき)ましまし永世(えいせい)諸人へ施す(ほどこす)べし、とありありと御示現(じげん)を蒙り、爾来(じらい)相伝(そうでん)して、諸人の病苦を救はしむること、萬人の知るところなり。

 

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 大悲、素より十二の誓願ましまし、諸病悉除(しつじょ)慈恩(じおん)一切衆生誰か其の利益を蒙らざらん仰ぐべし信ずべし、諸人結縁(けちえん)の為め茲に御薬師の縁起由来を記す。

     天明四年(1784)辰八月   回春山東福寺

                      快音謹白

 (註)昭和十七年(1942)寺号を東山寺と改む。

 毎年五月八日が縁日ですが、七年に一回御作仏の開扉が行われ、厄払いの流葬、流れ潅頂の儀式(施儀鬼の搭姿回向)が行われるのもこの時です。

昭和三十五年(1960)がそのあたり年でした。

 御守護をなす当、来見田家庭園を「観涛園(かんとうえん)」と称し、この庭に有名な俵石(玄武岩層の露頭なり)があり、この石の名から「俵屋」なる屋号がうまれました。

「観涛園(かんとうえん)」入口の解説掲示板には次のように記されています。

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「観涛園の俵石(かんとうえんのたわらいし)」

  昭和六十年(1985)二月十八日下関市指定文化財に指定されています。

 このあたかも俵を積み上げたように見える石は「俵石」と呼ばれている。

これは、自然のまま庭石としているので、その景観がすぐれているだけでなく、柱状節理には珍しく横に現われていることから地質学の資料としても価値が高い。

 松蔭先生は、北浦巡歴の際、ここに立ち寄られて、

 「播き尽きぬ宝の種や俵石」

 と讃えられました。

また、庭の所有者である来見田(くるみだ)家は、観涛園(かんとうえん)と呼ばれ、昔は俵屋(たわらや)という庄屋であった。附野薬師東山寺(つくのやくしとうざんじ)とのつながりが深く御本尊厨子の鍵を預かる旧家である。

下関市教育委員会

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 この庭は、明治維新の先覚者吉田松陰先生が、藩命を奉じて大津豊浦両郡及び赤間関海岸の防備を視察したときこの地に来られ、「廻浦紀略」の当該日には次のように記されています。

嘉永二年(1849)七月十二日

 雨すでに晴れたれども、風波未だ恬(やすら)かならず、故に尚宿に在り。

 午後一僕(ぼく)を率い附く野に至り、庄屋次郎兵衛が宅に過ぎり俵石を視、島戸浦に至る。

大河と云う處臺場宜し(よろし)。浦、戸数二百軒。

 阿川に至り日和山の臺場に登り、本浦東西及び今浦山の臺馬を遠見(えんけん)す。時に船は尚阿川に在り、船に上り要用(ようよう)の諸具を携へ、苅東山を越えて市中の宿所に帰る。

市中より阿川へ行くの里程、島戸へ廻れば二里、苅東坂を越せば一里、山路と雖平坦にして騎して走るべし。

 晩に向はんとして浦究(うらぎわめ)大田要蔵を訪(おとな)う、談話久しく夜に入りて帰る。

肥中湊の内ヶ輪、畔頭(くろがしら)平兵衛組、三右衛門の抱え地、城山烟硝倉に宜し(よろし)。

禮 明  

参考文献

松陰先生遺著 第2巻 廻浦紀略, 吉田庫三編(東京:民友社,明41,42 )

 所在地  下関市豊北町神田附野

 交通   JR山陰本線 特牛駅からバス13分「薬師寺」下車、徒歩2分

      下関 I.Cから車で72分

 問い合わせ 附野薬師東山寺 083-786-0243




お亀銀杏(亀山八幡宮)

 「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

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 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。

しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。

 

町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供(ひとみごくう )としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。

 

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町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 

月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。




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 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。

生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。

この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。

その名残である古株の跡は、今も残されています。

IMG_1168.JPG「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。

いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。

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 「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

 

 

 所在地  下関市中之町1-1

 交通   JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩5分

 問い合わせ 亀山八幡宮 083-231-1323




川棚温泉の青龍伝説

 平成13(2001)年、川棚温泉のすぐそばに舟郡(ふなごおり)ダムが完成し、青龍の伝説にあやかって「青龍湖」と名づけられました。

 

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青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。

 青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。

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 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。

 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。

 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。

 不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。




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 しかし、その後月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。

 川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。

 そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。

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 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。

 青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。

 再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。

 

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 以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現(松尾神社)に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。

松尾神社は、京都右京区松尾に御鎮座の元官弊大社松尾神社より、天正年間(1573〜1592)に当所守護神として御分霊を勸請奉斎しました。

当社一名青龍権現と称せしときもあり、温泉の源に住みし青龍を併せ祭ったとも云う。

 所在地  下関市豊浦町川棚湯町

 交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス4分「川棚温泉」下車、すぐ

      下関 I.Cから車で32分

      小月 I.Cから車で27分

 問い合わせ 川棚温泉観光協会 083-772-0296